第三者から見るとそっくりと評価されている私と従兄弟ですが、自分の目からだと「そりゃ似てる事は似てるけどなあ」程度の評価に落ち着きます。三十年近く鏡なんかを経由して見慣れた自分の顔と比較すると、「目尻の皺の幅が違う」とか「髭の生え具合が違う」といった部分で「似てない部分がある」となってしまいます。勿論、誤差の範囲と言い張る事もできますが、別に私が言い張ったところで何が変わるわけでもなし、それ以前に周囲からは既に同一人物と見られています。

「周囲はそっくりと言うけれど、私の目から見るとそうでもない」というのは、私の母と叔母もそうです。こちらは実の姉妹。似た顔であってもおかしくはありませんが、私から見ると「そんなに似てるかなあ」となります。片や産まれたときから見慣れている母、片や物心付いたときから見慣れている叔母。やっぱりこちらも三十年近く見比べていますが、似ているとは思えません。ですが、実際に街中で間違えられる事があるそうです。

お互いの住居が1kmも離れていないので生活圏が重なっています。近所の店で食料品を購入しようとすると、必然的に同じ店に行く事も多くなります。で、そこでご近所の奥様なりPTAでの顔見知りなりに声をかけられる事もあります。ここで「あら、○○さん」と来ると、「それは妹です」と返せます。問題は「あら、お久しぶり」で来られた場合。私の実家は商売をしているので、「以前の顧客」だとか「取引先の人」なんかだと下手な応対はできません。会話をしながら「この人は一体誰だろう」と探りを入れたり推理したりするそうですが、その結果「妹と間違えられてた」と分かる事も少なくないそうです。

もっと困るのは共通の知人が相手の場合。学校関係だとかご近所さん関係なんかで実際に起きたそうです。ある日、いつものように食料品の買出しに出かけた母。そこで遭遇するご友人、必然的に発生する井戸端トーク。あらあらお久しぶりから始まり、最近の天気だの子供さん元気だのという会話があったのでしょう。ですが、どうもおかしい。何か噛み合わない。それとなく探りを入れてみると、相手は母ではなく叔母と会話しているのだと勘違いしていたそうです。面と向かって会話して、それでもなお間違えるほどには二人は似ていないと思うのですが、実際にそんな事が起きているのですから仕方ありません。推測ですが、年をとってきてから間違えられる頻度が上がっているようなので、老化の仕方が似ているのかもしれません。皺の入り具合とか。無論、話し相手が順調に耄碌している結果だ、とも言えます。もう五十代も半ばだもんねえ。あと十年もしたらお互い名札を付けて外出した方がいいのかもしれません。

「似ているのかどうかは疑問」程度の母達でも、日常生活では似ている者扱いです。「似てると言えば似てるんじゃないか」な私と従兄弟では、既に同一人物扱いです。相変わらず、新居関係の相談で我が実家に出入りする従兄弟。夜だったらともかく、週末の昼間だとご近所さんの目にも止まります。先日、お隣さんとの会話の中でこんなことを言われたそうです。
「最近、よく息子さんが帰ってきますね」
俺じゃねえ。お隣さん、既にいい年なんで目が悪いとかそういう線も捨てられませんが、完全に従兄弟を私と誤認しています。たまたま私が実家に戻った際に実家前で会ったので「今日は本物が帰ってきました」とは言いましたが、真意が伝わったかは疑問です。

しかし、結構いい年なご老人だけでなく、両親と同年代のご近所さんも誤認しています。実家周囲は道が狭いので、軽自動車で訪れる事が多い従兄弟。それを見て母にこう言うご近所さん。
「最近息子さん車買い換えたの?」
俺じゃねえ。既にその人の中では「何らかの事情があって最近頻繁に実家に立ち寄っているが、日帰りなんで自分だけで新しく買った軽自動車に乗ってやって来る」私が存在しているようです。子供の大きさが違うとか、ナンバープレートが全然違うとか、相違点はいろいろあるのですが、ちょっと見る程度ではなかなか気付かないようです。我々も名札を付けるべきなんでしょうか。母達と違って苗字は同じだからフルネームで書かないといけないんですが。


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