「家族計画」という単語を聞くと無意識のうちにある種のゴム製品を思い浮かべてしまうわけですが、夫婦の間において「子供は何人」というのは大きな問題です。やたらと産むと大変だけど、一人もいないと味気ない。しかし、それ以前の問題として授からない可能性だってある。ある意味、考えても結論が出ない問題ではあります。
我が家の場合、当初からの合意事項としては「私は息子がほしい」「相方は娘がほしい」「一人っ子はつまらない」といったものがありました。意図せぬうちから種無しとかそういう心配がなくなってしまったためにこういう事が言えたわけですが。とにかく、次男が無事誕生し、すくすくと成長しているわけでして、上記の合意事項のうち私の願いは叶えられたわけです。
しかし、「娘がほしい」という一点においては課題が残っていると言えます。俗説ながらも男女の産み分けの方法は多数あります。
曰く、女性が満足すれば男が、満足しなければ女が生まれる。
曰く、奥で出せば男が、手前で出せば女が生まれる。
曰く、電磁波を浴びると女が生まれやすくなる。
ちゃんと説明がつきそうなものから「イワシの頭も信心から」「溺れる者は藁をもすがる」といったものまで。ええ、それこそ多種多様にあります。
が、結局のところどれもこれも確実ではないわけです。もし、先ほどの俗説が確実なものであれば、満足しなくても男が生まれ、手前でも奥でも男が生まれ、そして毎日電磁波を浴びる生活を送っているのに男が生まれるわけがありません。子供の性別を決定するのは精子の役目だとか言われていますが、そうなると私の種は男ばっかりかとかそういう夢のない結論にもなります。しかし、いくらなんでも三連荘で男はないだろう、とも思います。思いますが、もし、ここで万が一にも「三連荘で男」となった場合はとんでもない事態になるわけです。
思い浮かべるのは友人古某の兄弟構成。彼は四人兄弟でした。恐るべきことに、その全員が男。むさ苦しさ、ここに極まれりといった状態です。しかも運の悪いことに、長男である友人古某その人はプロレスがお好きなわけでして。ええ、その、「関節技は挨拶代わり」という状況が目の前で繰り広げられたりするわけです。「あなた、高度成長期の家族風景じゃないんだから」と突っ込みたくもなりますが、残念ながら二十世紀末の現代だったりするのです。
その思い出を元に、三人兄弟が全員男であった場合を想像しますと、「二十一世紀初頭なのに、相も変わらずプロレスごっこから兄弟喧嘩。繰り出される伝家の宝刀『晩御飯抜き』」という、やっぱり高度成長期風味な場面になってしまいます。真の高度成長期には「みんな坊主頭」「白黒テレビ」「鼻水」などといった小道具が必要になってくるので、あくまでも「風味」です。
などといった理由とはあまり関係なく、つい先日「子供は二人で打ち止めにしよう」という協定が結ばれました。いや、真相としては「二人でも大変なのに三人は無理だ」という面白みのないものなんです。少子化は食い止めているわけですから、もういいじゃないか、と。
週末限定ながらも子供たちと遊んでいると、その無限の体力にこちらの方が先にダウンすることが多いので、これがさらにあと一人というのはやっぱり無理があります。うん、無理。せめてもう少し実家の近くに住んでいるのであればまだ違うのかもしれませんが、片道二時間というのはなかなか大きな壁となっています。しかし、次男が生まれるどころか「次男っぽい」という時点では「んじゃ三人兄弟か」と暗黙の了解があったわけです。単に見通しが甘かっただけだと言われれば、はいそうですとしか答えられないわけですが、って、もういいや。
そんなわけで三人目を諦めることにした我が家です。二人兄弟、すなわち四人家族もいいものですよ。なにより、引越しの際に部屋割りで頭を抱えないで済みますし。食費もかからないし。男ばかりだとむさ苦しくなるであろうというのがやや難ですが、まあその辺は仕方がないということで、授かり物に文句を言っても仕方がありません。
と、めでたしめでたし、どっとはらいといくはずだったのですが。次男が誕生したときの雑文で触れたのですが、お蔵入りした文章が存在するのです。たしかに、ディスクの中にはその文章が。中途半端にしか下調べをしていないため完成度は七割といったところですが、その気になればすぐにでも使えるような文章が。しかし、ネタがネタだけに子供が生まれそうな時でもないと使えません。「出産をネタにする」というのはよくある話ですが、「ネタがあるから出産する」というのはかなり間違っています。手段と目的が入れ替わっているというのはまさしくこの事でしょう。そんなわけで、暫定的お蔵入りから永久お蔵入りに変更。ああ、貴重なネタが。