ビーチバレーという競技があります。若いお姉ちゃんが肌をさらけ出して、たゆんたゆん揺らしながら玉を追いかける競技です。「野郎はどうした」とかの根本的な指摘は受け付けません。あの競技は得点がどうとか、技術がどうとかを競うのではなく、たゆんたゆんを観賞するために存在するのです。
その根拠は公式ルールの一節にあります。曰く、「ユニフォームは、パンツとタンクトップの上下に分かれたセパレートタイプのもので、(中略)パンツは女子はサイドが7cm以下のビキニタイプと定められている。」と。「以下」です。「以上」ではないのです。公式ルールは露出推奨です。限界点を記述していないので、ビキニと言い張れば紐でも問題なしという事になります。間違いなく放送はできませんが。ルールにて肌を見せる事を明記している以上、あの競技はそのさらけ出された個所をじっくり観賞する事も礼儀の一つとなります。
ところが、最近では「選手が集中できないからコート側での写真撮影禁止」という通達が出されてしまいました。けしからん事です。集中できないならばユニフォームを短パンにする等の処置をとればいいのに、「肌は隠すな、写真は撮るな」です。けしからん事です。いや、別に短パンになろうがジャージになろうが下半身はどうでもいいのです。谷間さえ、谷間さえ残ればあとはどうでも。私にとってあの競技は、たゆんたゆんと谷間が存在意義の大部分を占めています。極端な事を言えば、上着などで谷間を見えなくしているとか、物理的に谷間が存在しないとか、そういう選手は私にとって「ビーチバレーの選手」とは認められません。必然的に、私の世界に「男子ビーチバレー」という競技は存在しません。脛毛とか、爽やかな好青年とか、そういうものは必要ないのです。
そもそも、です。相手はその谷間を女性の武器として使用しているのです。武器を使っているのならば、それを受けて立つのが礼儀というものです。武器として谷間を見せ付けている以上、それをじろじろと見たり、舐めるように見たり、貪るように見たりするのは決して失礼ではないはずです。むしろ、自らの武器の効果に満足するはずです。
そういう意味からも、階段を上る際にスカートを押さえる女子高生だとか、スカートの端を押さえて自転車をこぐOLさんとかを見ると、見せるなら見せるではっきりしろと思うわけです。無論、太ももが見えようが、その先の布切れが見えようが、それはそれでそれなりにどうでもいいわけです。いや、そりゃ見えたら見えたでよかったねくらいには思いますが、それよりも谷間のほうが重要なのです。朝、出勤中にすれ違う自転車のお姉さんが私に近づく前にそっと手でスカートを押さえるのが見えると、「俺の視線はもっと上だ」と主張したくなるのです。足なんぞどうでもいい。谷を、谷間を見せろ、と。足なんて、家に帰れば奥さんのがあるわけです。ですが、谷間は家に帰っても存在しないのです。いや、谷間という概念は存在するのですが、それが物理的に存在するかというとこれはまた別の話でして。あと、谷間分が皆無であるとまでは言いませんが、だからと言って満足できるほどの量であるかと言われるとこれもまた別の話でして。もし、谷間を自給できるのであればここまで拘る事も無かったのかもしれませんが、言っても詮無い事です。自給できない以上、外部から谷間分を、そしてたゆんたゆん分を摂取しないといけません。
無論、摂取させていただいた相手に対する敬意も忘れてはいけません。基本は二拍手一礼です。さすがに突然出会った見知らぬ谷間にまで拝む事はありませんが、親しい間柄などであれば直接本人に謝意を表すこともあります。以前、友人の結婚式に出席した際の事。新婦友人に見知った顔がありました。久しぶりに会ったので会話も弾むわけですが、そんな時でも視線はある個所を行ったり来たり。節操無いと言われそうですが、若い女性が晴れの席に素敵なお召し物でいらっしゃっているわけです。それならば、しっかりと観賞するのも礼儀でしょう。さすがに「素敵な谷間ですね」とまでは言いませんが、それでも胸元めがけて二拍手一礼は忘れません。直後から手によるガードが入ったのは気のせいです。きっと。スカートにもガードが入ってたけど、そっちはそっちでどうでもいいんだ、うん。
昔から「見られたくなければ見せるな」というのが私の意見です。谷間というものは、明らかに破壊力のある武器です。しかも、その武器を使うには一定の条件も必要です。世の中にはその武器を使えない方々もいるのですから。また、基本的に谷間に目が行かない男性というものは少数派です。十人中八人くらいは一瞬は谷間に目を奪われます。残りの二人は、見飽きたか、はたまた非谷間派の人間です。前者はブルジョアだから私の敵ですし、後者は私と分かり合う事はありません。前者は迫害の対象ですが、後者とは共存できます。
で。破壊力抜群であり、さらに効果も期待できるわけですから、もっと世の中には谷間が溢れていてもいいと思うのです。いや、何も胸元を大きく開けろと言っているのではありません。シャツの上端からちょっぴり、しかしはっきりと谷間が確認できればそれでいいのです。そりゃ、ぐぐーんと谷間が自己主張するのも悪くはありませんが、それはそれで情緒というものが無くなります。夏と秋のギャップの大きさに悲しくもなります。慎ましく、しかし強かにその存在を主張してこそ、谷間は輝くと思うのです。
ああ、たゆんたゆんの方は、むしろがんがん主張して欲しいです。全力疾走とか、そっち方面で。是非。